社名
粒坐天照神社
(イイボニマス アマテラス神社)
【意味】「粒(いいぼ=揖保の郡)に坐す(=いらっしゃる)天を照らす神の社」
【通称】社名が難読なため音読みして「リュウザ テンショウ神社」「リュウザ神社」とも呼ばれています。
社格
延喜式内社 名神大社 (旧縣社)
ご祭神
天照国照彦火明命
(アマテル クニテルヒコ ホアカリ ノ ミコト)
「ホアカリ」とは「穂明かり」「穂赤熟」にも通じ、稲穂が熟して赤らむ意味。天照大御神とはまた別の太陽の神・稲作の神として信仰されております。
ご由緒
千年以上前に記された朝廷の記録『延喜式』の「神名帳」に当社の名前が見えます。
そのなかでも特に朝廷からの尊崇の厚い「名神大社」とされていました。
当地に伝わった古い伝承によると、推古天皇2年(西暦594年)、
地元の有力者であった伊福部連駁田彦(いふきべのむらじふじたひこ)がご神託を受け、
五穀豊穣の神様 天照国照彦火明命を祀ったことが始まりとされています。
駁田彦はその際、ひと粒の稲種と水田を授かり、これを耕作したところ一粒万倍の大豊作となり、
以後この土地は「米粒」を意味する「イイボ(粒・飯穂・揖保)」の郡と呼ばれ、播磨の穀倉地帯となったそうです。
なお、ご祭神の降臨の地は、当社北側にそびえる的場山の中腹と伝えられており、現在でも天祇神社(あまぎじんじゃ)としてお祀りされています。
周辺には、巨人が食べこぼしたお米粒を思わせる巨石が点在しており、これを『播磨国風土記』の「粒丘(いいぼのおか)」に比定する説もあります。

当社は、『延喜式』神名帳に記載される揖保郡七座のうちの一座であるとともに(式内社)、
同神名帳に226社列挙されている名神大社の一社でもあります。
平安時代の歴史書『日本三代実録』をみると、貞観元年(859)に京畿七道の267の神社に朝廷から神階が進められたことが分かりますが、
当地播磨国では「粒坐天照神・伊和坐大名持御魂神(伊和神社)・海神(海神社)」のみが叙されています。
律令制度下において播磨国有数の大社とみなされていたことがわかります。
このことを元に「播磨三大社」と言われる方もおられます。
中世から近世初頭にかけては大いに荒廃し、神仏習合の影響もあって「三社大権現」と名を変えていましたが、
天照国照彦火明命は、その三社大権現の境内社として大切にお祀りされ続けていました。
寛文12年(1672)、脇坂安政公が龍野藩に入られてからは、以後歴代の藩主の手厚い庇護を受けて、龍野城下の総鎮守として信仰されました。
現在の大規模な三段構造の境内となったのは、脇坂のお殿様のご普請によるものといわれています。
近代に入ると神仏判然令をうけて、明治12年(1879年)には「粒坐天照神社」へと社号を復し、「播磨の小京都」龍野の総氏神として、
また当地で興隆した淡口醤油をはじめとする発酵文化の基となる五穀豊穣の神様として、今日に至るまで大切にお祀りされています。
